(その1 西方浄土と太子について)
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○「西方浄土」(さいほうじょうど) 古来、国中(くんなか)と呼ばれた奈良盆地(古くは盆地湖があった)で、朝日の昇る東方に三輪山、夕日の沈む西方には二上山が見え、その配置から西に見える二上山(ふたかみやま)を、この世(此岸)とあの世(彼岸)の境目とみていたと考えられる。 実際に地図や歴史的背景で見てみると、二上山雄岳には墓(大津皇子【注】とされる)があり、文字通り山を越えた向うは"死者の国"であり、聖徳太子所縁の太子町があり、古代陵墓や古墳群がひしめいている。
太子町の磯長谷(しながだに)辺り一帯は別名『王陵の谷』ともいわれ、蘇我氏と関係の深い第30代敏達天皇以降の主だった方々の墳墓や墓が点在しています。大化の改新以降、政治の中心が飛鳥から難波宮に遷都され、豪族中心から天皇中心の政治になった後は、天皇、皇族及びその家臣の墳墓や墓は造営されていません。 【注】大津皇子 − 天武天皇崩御後の皇位継承で、謀反の罪をきせられ自刃に追いやられたとされている。
○「太子」について
天竺(てんじく 現在のインド)より伝来した佛教を広め、なおかつ四天王寺他数多くの寺院建立を行なった聖徳太子にちなんで名付けられた地名である。→太子死後、聖徳太子建立という寺も多いと云われているとか?
・下の太子 − 大阪府八尾市太子堂にある大聖勝軍寺のことです。開基は聖徳太子、 宗派は高野山真言宗 ・中の太子 − 大阪府羽曳野市野々上にある野中寺のことです。開基は(伝)蘇我馬子、 宗派は高野山真言宗 ・上の太子 − 大阪府南河内郡太子町太子にある叡福寺のことです。開基は聖武天皇と いわれているが、聖徳太子あるいは推古天皇ともいわれる。 宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗っている。
南河内郡太子町も上の太子の地名・駅名も、聖徳太子の所縁から発祥している。
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(その2 ウォーキングについて)
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朝から天気が思わしくなく、ふるさと夢プラン"芋ほり体験"参加予定で8:45頃近鉄南大阪線「上ノ太子駅」前に到着したが、雨が吹き降りとなり大雨警報が発令されたこともあり、植田氏(ふるさと夢プラン"芋ほり体験"主催)に連絡したところ中止となるが、商工会及び連合会の参加者を含め総勢14名で、雨の中参加者の意見もあり決行する事となる。
全員が揃ったところで、太子町役場方面に向け出発する。春日西より竹内街道(旧道)に入り"妙見寺"、"角屋跡"、"六枚橋※(謂れ)"等を巡り、太子町役場の"明日香の歌碑"で休憩(11:00〜11:20)をし、その後、"(土地伝説)蘇我馬子塚"、"西方院"を巡り"叡福寺"で昼食休憩(12:00〜12:30)をとる。
※謂れ- JA大阪南太子支店の南側を通過するあたりで、竹内街道は川を渡ります。この川はいわゆる河内の飛鳥川なんですが、
ここに架かる橋は六枚橋と呼ばれています。
「どうして、こんな名が付いたのですか?」
よく聞かれるのですが、これまた古い街道筋にはありがちな言い伝えが残っています。昔、この橋は6枚の板を渡して橋としており、
その数は「南無阿弥陀仏」の6文字になぞらえたものだとか。ちなみに橋を渡る人からは通行料をとっており、三途の川の渡し賃に
ちなんで、六文銭だったとか・・・。どこまで本当の話かわかりませんが、歴史が長いといろんなお話が生まれてくるものですねえ。
ところで、いったいどっちがあの世なんでしょう?(竹内街道歴史資料館友の会のページより)
午後からは、境内の金堂、太子堂等を巡り、聖徳太子廟の案内を受ける。境内内の各堂を巡りながら"太子和みの広場"に入り、石棺、石室の模型(聖徳太子廟)等を見て回る。天気がよければ、ここ(和みの広場)が昼食休憩の場所になっていたはずであった広い芝生の広場を見ながら、「上ノ太子」駅へ向かい帰途へとつく。
予定ではニンニク畑での芋ほり体験(羽曳野市飛鳥)、飛鳥ワイン(株)の工場見学等があるはずだったが、芋ほり体験は中止となり、工場見学も中止し駅前で現地解散となった。
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