歴史ウォーク 4

羽曳野市北西部・藤井寺を歩く 約6km

白鳥陵古墳
 

(その1  古市の歴史的考察)

古市

 羽曳野市において、当市東半分は律令時代に『河内国古市郡』と名付けられ、それ以前より「古市村」と呼ばれていた。古市郡は、旧市、故市(いずれも『ふるいち』)などとも書かれ、郡内には古市郷など4つの郷(古市、軽墓、碓井?、駒ヶ谷?、西浦?−野本藩の領地内に古市郡のうち五ヶ村とある)があった。羽曳野市の市域は、古市郡(古市村、駒ヶ谷村、西浦村)、丹南郡(丹比村、埴生村、高鷲村)の合併(南大阪町)が基となり羽曳野市へと続いている。

記紀に登場する「古市」の地名

 第12代景行天皇の皇子、小碓命(おうすのみこと−ヤマトタケルノミコト)は西征東伐ののち伊吹山で病となり、伊勢の国に至り足が三重に曲がったのでこの地を三重村と名付けたと伝えられており、能褒野(のぼの−亀山市)の地で薨去された。 その地に陵を築き従者、民が嘆き悲しんでいると、ミコトの魂は一羽の白鳥となり飛び立っていった。その行方を追うと、大和国琴弾原(御所市)に舞い降りられそこに留まられたので、そこに陵を築いた。その後再び飛び立ち、次に河内国志幾(しき)旧市邑(ふるいちのむら−羽曳野市軽里)に舞い降りられ、その地に白鳥陵を築いた。その後再び飛び立たれたとという事で、伯耆及び美作の国、関東から中部一帯及び四国にも日本武尊(倭建命−やまとたけるのみこと)の物語、伝説等が残されている。日本武尊の御陵として、亀山市、御所市、羽曳野市が挙げられ、現在「白鳥三陵」として残っています。
 ※美作市湯郷温泉に足を骨折した白鳥が舞い降りられ、そのいで湯に足を浸したら脚が治癒し再び飛び去っていった
  といわれる伝説が残っている。この温泉は、現在でも湯治場として有名である。


4世紀後半以降の河内国について(応神・仁徳統治時代)

 歴史ウォークその1でも記したが、第15代応神天皇が統治されたとされる4世紀後半、「河内国」は現在の大阪府に兵庫県南東部を含めた−摂河泉三ヶ国分の大国で、その後「和泉国」、「摂津国」が分離独立し「河内国」として領域が定まったのは8世紀中頃以降のことである。今述べる「河内国」は、応神天皇統治時代の広大な摂河泉三ヶ国を含む「河内国」のことである。その当時大阪は、現在の上町台地から東を眺めると生駒山脈麓まで湖が拡がり、その湖(河内湖)には、北東から淀川、南東から幾筋もの河川に分かれた大和川が大量の水と砂礫を流入させていた。溢れそうなその湖水は、上町台地(当時の半島部)北側から伸びる砂嘴の先端で形成される水道より、急流となって大阪湾(西の海)に流れ込んでいた。九州より東征してきた応神天皇は、畿内勢力の抵抗を受けながらも王権を樹立し、難波大隅宮を営んだと謂われている。 (現在の東淀川区大隅〜大道南近辺)
 大阪平野、特に大和川流域は頻繁に水害に遭っており、第16代仁徳天皇は大阪城近くに高津宮(現生國魂神社の北辺り)を営んで河内国の経営に尽くし、河内湖の水を西の海に放流させる掘割(堀江−現在の大川)を開いた。また淀川水系の氾濫を軽減させるため、最終的には人柱をたてて茨田堤(まんだのつつみ)を築いた。そして、陸上交通にも増して水上交通にも重きを置き、各所に用水路を引き水運の向上も図った。これは、氾濫原を少なくする計画を基にしており、新田の開墾も併行して行った。今も「古市大溝」(現在確認されている範囲は、軽里から高鷲を通り東除川へと伸びています)として名を残している水路は、この時代に築かれたものである。

難波津から古市(通ずる路について)

 現在の大川の南側西方外海(瀬戸内海)に難波津(なにわのつ)が開かれており、応神天皇朝以降朝鮮半島との文物の往来が盛んになっており、文物ばかりではなく、「人」も多くやってきた。
 仁徳天皇の世には、難波の都・高津宮からまっすぐ南に、現在の羽曳野市西部・丹比に至る大道が整備されたと日本書紀に記されている。丹比から東の大和へ向かう古道(丹比道)があり、この道は、この後第33代推古天皇の時代にわが国最初の官道として整備された“竹内街道”となる。

 難波の津に到着した半島の文物の多くは川舟に転載され河内湖より大和川を遡り、当時の河内の中心である「志幾」、「古市」辺りで陸揚げされ大和へと向かっていった。河内と大和の間(柏原市⇔葛城郡王寺町)には「亀の瀬渓谷」があり、河川交通の難所となっており、この山越えは陸路で行なわれていたと考えられている。 その「志幾」、「古市」こそ、現在の藤井寺市、羽曳野市である。そしてその古市には、人工の水路が引かれ『古市大溝』として遺構が残っている。この『古市大溝』は、水上交通と灌漑の双方に使用されていたと考えられている。
 古市の船着き場は竹内街道が「石川」を渡河する地点(現臥龍橋辺り)に在り、難波の津と大和を結ぶ交通の要衝であったことに疑問の余地はないであろう。

応神天皇陵古墳について

 応神天皇陵古墳は、誉田にある誉田山古墳(恵我藻伏岡陵 えがのもふしのおかのみささぎ)に治定される巨大古墳であり、百舌鳥古墳群の大仙古墳(仁徳天皇陵古墳に治定)の占有面積では負けてはいるが、墳丘の体積及び表面積では凌ぐ大きさをもっている。
 応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)等と名乗られていたことから、その陵墓名の「誉田」も「ほむた」、「ほんだ」が正式名なのだが、なまって「こんだ」と読まれ、地区名も「こんだ」として残っている。この地域(志幾、古市)周辺は、百済系の渡来系氏族が多く居住し「ほんだ」と発音しにくいか、出来なくて、「こんだ」と読んでいた人が多数占めていたのではないだろうか(?)とも考えられる。

古市氏について

 第16代仁徳天皇が高津宮を開くまで、河内国の中心は志幾・古市(古くから津=港があり、大和への中継地点)で、第15代応神天皇の時代以降多くの渡来系氏族が居住した。以来、この地に居住した渡来人は、西文氏(かわちのふみうじ−百済王仁(わに)が始祖)−西琳寺を開基、葛井氏(ふじいうじ−百済辰孫王が始祖)−葛井寺が氏寺・辛國神社が氏神、津氏(つし−百済辰孫王が始祖)−大津神社を守護神として創祀・津(港)の管理者、船氏(ふなし−百済辰孫王が始祖)−河内水運の担い手、馬氏(まし−遣唐使と共に来た唐系渡来人か?)−陸運の担い手等で、多くは朝廷の文官に登用されたり、水運や陸運の仕事を行なったりして、大陸から渡来した技術や文化を伝承していった。
 さて古市氏のことだが、『古市村主−ふるいちのすぐり』の登場によって確認され、河内国古市郡古市郷より起こったとされている。  『村主(すぐり)』は、渡来人のうち有力者に与えられた姓であり、この姓で村長(むらおさ)になることもある。
  ※村主は、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)等と同様、
   大王より賜る姓(かばね)であり、その他渡来系百済王族に与えられた王(こにしき)等がある。

 この有力な渡来人『古市村主』が河内の『古市氏』となり、その一族は百済虎王を祖とする百済系渡来人の末裔が引き継いでいった。

【注】 西文を「かわちのふみ」と読むのに対し、東漢を「やまとのあや」と読まれているのは、当時の畿内では、東といえば大和国(やまとのくに)を指し、西といえば河内国(かわちのくに)を指していた。やがて西文は首(おびと)、東漢は直(あたい)の姓(かばね)を賜る。その後、東漢氏は連(むらじ)の姓を賜る。


(その2  ウォーキング経路)

 平成24年3月22日(木)好天のもと、近鉄南大阪線「恵我ノ荘駅」を起点とし同「藤井寺駅」を終着点におき、泉南市商工会の参加者を含め総計48名で、旧長尾街道と羽曳野市北西部及び藤井寺市周辺を辿るかたちでのウォーキングを始める。

 今回のコース−最初は2班に分かれツヅミ食品(株)(羽曳野市恵我之荘)と河内大塚山古墳−を辿りながら、旧長尾街道を北に入った所にある吉村家住宅に向け歩を進めていく。続いて雄略天皇陵古墳と隼人塚(陪冢)を見学し、“陵南の森”に入る。敷地内の藤棚の下等で昼食を摂り、総合センターの展示資料等を見学しながら、午後からのウォーキングに備え休憩をする。

 午後からは、高鷲、伊賀等の旧市街地を通り抜け大津神社、仲哀天皇陵古墳、辛國神社を巡り、藤本酒造醸(藤井寺市藤井寺)へ向かい工場内での案内と試飲等で、参加者各々満足されたようだ。その後、葛井寺に入る。
 葛井寺からは最後のゴール地点まではすぐなので、藤井寺まちかど情報館『ゆめぷらざ』を見学したのち藤井寺駅にて現地解散をした。
 



大塚山古墳

ツヅミ食品


東除川 
 
明教寺


吉村家住宅前で



雄略天皇陵古墳
 


大津神社


 
辛國神社



藤本酒造醸 


 
葛井寺
 
ゆめぷらざ
 
 

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