(その1 藤井寺市の歴史的考察)
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古 代
藤井寺市は他の地域と行き来し易く、古くから人々が住み古代文化の発祥の地であり、金剛・和泉山系に源を発する石川と大和盆地から流出する大和川の合流点西側には段丘地形が発達し、この段丘面に巨大な古墳が築造された。市内各地に見られる小山のような森は、古墳時代の巨大な前方後円墳で藤井寺市を象徴する景観の一つとなっています。隣接する羽曳野市の多くの古墳とともに「古市古墳群」と呼ばれ、全国有数の古墳群の一つです。
河内と大和を結ぶ大津道(長尾街道)や丹比道(竹内街道)の要地として栄え、大化の改新(645年)以降は「河内国府」が設置され、河内国の中心となりました。
市北東部の国府(こう)遺跡は、先土器時代より旧石器文化の栄えた所で、縄文・弥生・古墳時代、中世へ続く複合遺跡で、約2万年前の旧石器をはじめ、多数の人骨・石器・土器等が出土し、旧石器・縄文時代研究の記念碑的遺跡となっている。
河内国府と古代寺院
渡来系氏族によって仏教文化がもたらされ、葛井寺(葛井連の氏寺)や道明寺(土師氏の氏寺)が建てられました。この二大寺院は、後々まで地域の纏りや地名の変遷に関して、大きな存在となっていく。ほかにも、衣縫(いぬい)廃寺(惣社2丁目)や船橋廃寺(船橋遺跡−北條町・船橋町)、拝志(はやし)廃寺(林3丁目辺り)、大井廃寺(大井3丁目辺り)など、河内国志紀郡に集中的に建造された古代寺院のいくつもが、藤井寺市に存在しています。
国府や多くの寺院があったこの地域は、多くの人々が行き交う場所となり、国府の近くに河内国の中心となる市である「餌香市(えがのいち)」(古くは藤井寺、羽曳野北部一帯は“恵我”と呼ばれていた。会賀市とも書く)の置かれたことが、日本書紀に登場します。河内国での政治・経済の中心地として、大いに賑わったことが想像され、現在でいうかなりの都会であったことでしょう。
平安時代末期から鎌倉時代に移ると、清和天皇の子孫である源頼信が土着して「河内源氏」の祖となり、以来当地を基盤に活躍しました。この頃から各地に荘園が作られ、同地区には大和国興福寺領「岡荘」が形成された。
中世から近世
南北朝時代から戦国時代においては、南北朝期には楠木一族が支配を広げ、戦国期には河内国は畠山氏の守護国となり、最初は楠木氏が、そして畠山氏の家臣らが津堂城山古墳上に「小山城」を築城しました。
南北朝以降及び明応の政変(明応2年・1493年)等により度々戦乱に見舞われ『葛井寺』が戦火で、また永正7年(1510年)の地震で堂塔が消失しています。この頃より、村落が地域的に結合した郷村制が発展し、庶民の生活の基盤となりました。
江戸時代には大名領、旗本領、寺社領等が入り組み、支配は一律ではありませんでしたが、自治的な繋がりにより維持されてきました。またこの地域は、自治都市『堺』の経済圏に入っており“長尾街道”はかなり繁栄していたようです。
【市名の由来】(藤井寺市ホームページより)
藤井寺の市名の由来は、いうまでもなく名刹「葛井寺」(ふじいでら)から引用されていますが、この寺の由来が同時に土地の歴史の一面を物語っています。
寺伝によると天平の初期、河内葛井の里にいた百済王族の子孫−葛井給子の旧跡に、聖武天皇が勅願によって寺院を創建され、稽文会父子(春日仏師)に勅命して千四十二臂を備えた”千手観音”を作らせ、神亀2年(725年)藤原房前を勅使に任命し、僧行基に導師をつとめさせ開眼供養したと記されています。
しかしこれを忠実に照応すると王氏一族の白猪史(シライノフヒト)が元正天皇の養老5年(721年)に河内恵我長野邑(藤井寺近辺の旧名)に土地をたまわり、名も「葛井連(フジイノムラジ)」と改め、本拠地としていた。
葛井連の親族には柏原国分や羽曳野市野々上から伊賀・南宮・北宮・島泉・小山・津堂附近にかけて分散居住していた船史(フナノフヒト)や津史(ツノフヒト)があり、いずれも帰化系の文化人でした。
つまり藤井寺は前記の葛井連一族が聖武天皇の仏教興隆政策に積極的に協力し朝廷からの補助を受け氏寺として建立し、落慶法要には聖武天皇も行幸されたものと思われます。
その後、堀河天皇の永長元年(1096年)大和国軽里の住人、藤井安基が葛井寺を訪れ、荒廃しているのを見てなげき各地より浄財を集めて再建に成功、よって安基の苗字をとって藤井寺と村名を改めたといわれています。
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(その2 ウォーキング経路)
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平成24年10月19日(金)好天のもと、近鉄南大阪線「恵我ノ荘駅」を起点とし同「藤井寺駅」を終着点におき、大阪府商工会連合会の参加者を含め総計20名で、旧長尾街道と羽曳野市北部及び藤井寺市周辺(一部松原市を含む)を辿るかたちでのウォーキングを始める。
今回のウォーキングコース(最初は『ツヅミ食品』・商店街の『いらっしゃいの店』)を巡りながら、恵我之荘商店街を北上し新旧の長尾街道を突っ切り、最初の旧跡である「一津屋古墳(厳嶋神社)」へ入る。ここは松原市一津屋地区で、古くは南北朝時代に楠木氏家来和田氏の城であり、戦国時代古市高屋城に砦を構える畠山氏に対抗し、四国から河内制覇を狙う三好氏が一時砦(出城)を構えた所である。その後、東除川沿いを抜け旧長尾街道北にある「吉村家住宅」に向け歩を進めていく。「吉村家住宅」の敷地の広大さ(一部池が埋められ幼稚園となっている)に驚きながら、島泉、高鷲、藤井寺市小山の住宅街を抜け「津堂城山古墳」に入る。その中の「津堂八幡神社」や墳丘、花園を巡り、古墳北端にある展示施設『まほらしろやま」近辺等で昼食を摂りながら午後からのウォーキングに備え休憩をする。
午後からは、小山の市街地を通り抜け「藤井寺市立図書館」へ向かう。ここには、三ツ塚古墳側溝より出土の『修羅』(小修羅)の実物(重要文化財)が展示されています。その後、同図書館南を東西に走る旧長尾街道を辿り、伊勢道を南下し「葛井寺」を巡り、『藤本酒造醸』へ向かう。ここは藤井寺市内唯一残る蔵元であり、案内と試飲等で参加者各々満足されたようだ。
ここからは最後のゴール地点まではすぐなので、藤井寺まちかど情報館「ゆめぷらざ」を見学したのち現地解散した。 |
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