竹内街道・飛鳥千塚他古墳群・駒ヶ谷を歩く 約5.5km

大谷古墳群
 

(その1  羽曳野市東部地区の歴史について−古墳時代まで)

弥生時代以前
 羽曳野市東部丘陵地域には、旧石器時代より古墳時代後期終末期までの遺跡・遺構・史跡等が点在している。先土器時代の株山遺跡(サヌカイトを加工して石器製作をしていた遺構がある)をはじめとして、弥生時代後期には駒ヶ谷遺跡や御嶺山遺跡などの高地性集落跡がある。
 【駒ヶ谷遺跡】
 石川右岸の丘陵上にある弥生時代後期(約1,800年前)のムラの跡で、中央には円形や方形の竪穴住居跡が点在し、継続して居住していたことが窺える。50m程の丘陵上で、水田耕作や飲料水確保については不便を来たすが、大阪平野を見渡すことが出来、敵からは攻められにくい地形にある。石鏃(せきぞく)も多数見つかっており、争いに備えた高地性集落のひとつと考えられる。

古墳時代
 前方後円墳に代表される古墳が造られた時代(3世紀後半〜6世紀)を古墳時代と呼んでいます。

【前期】(〜4世紀)
 羽曳野市内10基程度と柏原市玉手町に10数基の前方後円墳からなる玉手山古墳群があり、南河内でもっとも有力な一族の墓と考えられている。これらの古墳からは、数々の副葬品(青銅製腕飾り等)や鏡(三角縁神獣鏡を含む)が発見されています。また埋葬施設としては、竪穴式石室が多い。
 【壺井丸山遺跡】、【お旅山古墳】(壺井)、駒ヶ谷宮山古墳(駒ヶ谷小字護摩堂)等が挙げられる。

【中期】(5世紀)
 この時期は、飛躍的に墳丘が大型化した時代で、巨大な前方後円墳が数多く造られています。この頃になると、羽曳野・藤井寺市域で古市古墳群の形成が始まります。また、これら巨大古墳の近くには陪冢(ばいちょう−陪塚)と呼ばれる古墳も多数見られます。そして納められる棺に関しては、前期の木棺から石棺へと変わっていきます。副葬品においても、呪術的なものから馬具や甲冑へと変わり軍事的なものとなっていきます。
 ※陪冢・陪塚の用方については、細かくなるのでここでは省きます。

【後期〜終末期】(6世紀頃)
 墳墓自体もより小さくなり、埋葬施設は竪穴式石槨から横穴式石室へと移行が始まり、副葬品は武具中心(多くは鉄製品)から武具(鉄製品)・装飾品(金、銀製品等)へと変化していく。この頃から特定の人物にしか許されていなかった古墳造りが一般化していき、各地で群集墳と呼ばれる小型墳がまとまって築かれるようになります。これら群集墳は、直径が10m前後の円墳で横穴式石室を備えた古墳が中心となっていて、ミニチュア炊飯具等珍しい遺物も見受けられ、渡来人の墓ではないかと考えられている。河内飛鳥地域は、歴史ウォーク1でも書いた通り、渡来文化の影響が色濃く残っているところでもあります。
 【飛鳥千塚古墳群】(駒ヶ谷・飛鳥)、【鉢伏山西峰古墳】、【奉献塔山古墳】(駒ヶ谷)、【観音塚古墳】、【オウコ8号墳】(飛鳥)等が挙げられる。

(その2  ウォーキング経路)

平成24年11月21日(水)
 朝のうち少々冷えてはいたが、好天のなか近鉄南大阪線「駒ヶ谷駅」を始点・終点として予定コースを辿るウォーキングが始まる。10時過ぎ参加者26名及びスタッフ3名、ガイド役として史遊会3名の合計32名で最初の訪問目的地「(社)ふたかみ福祉会はびきの園」へ向けてウォーキングを始める。
 「(社)ふたかみ福祉会はびきの園」の見学及びクッキー作り体験に参加した後、順次訪問コースを辿りながらウォーキングをすすめる。
 「杜本神社」の竹林の参道を抜け、史遊会より説明を受けながらそこを後にして、ここから山歩きが始まっていく。途中の「グレープヒルスポーツ公園」で、足の悪い人や山歩きが苦手な人はそこで待機していただき、「切戸古墳」・「鉢伏山西峰古墳」への登り道が迫る。丘陵上で大阪平野の眺望を楽しんだ後、「グレープヒルスポーツ公園」に戻り、待機組と合流した後「大谷古墳群」の説明を受ける。
 本日最後の訪問地(企業)「(株)河内ワイン」で、ワイン製造に関する企業の歴史を聞き、新酒ワインの試飲等を楽しんだのち、「駒ヶ谷駅」にて現地解散となった。

 

はびきの園への道中

はびきの園

クッキー作り体験1

クッキー作り体験2

杜本神社への参道

杜本神社での説明

眼下の景色

鉢伏山西側古墳

大谷古墳群1

大谷古墳群2

金徳屋(現河内ワイン)初代の前掛け

河内ワイン館での説明
 
 

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